もう“師走”ですね。こちらキューバは寒くないので、なんだか年末気分がしません…。

 

1125日(金)22:29にフィデル・カストロ前議長が逝去し、26()から124()までの9日間は服喪期間でした。1128()からは追悼関連行事が始まり、国が喪中だったため、ハバナ大学関係はほとんど何もない、いつもの生活とは違う一週間でした。
 

<革命広場の国立図書館に貼られた カストロ前議長の垂れ幕>

カストロ追悼1
 

1128日(月)

9:00にハバナのカバーニャ要塞で、21発の大砲の儀式がありました。(サンティアゴ・デ・キューバでもありました。)

それをもって、キューバ各地での追悼記帳が始まりました。ハバナの革命広場にあるホセ・マルティ記念館では、月曜日9:0022:00、火曜日9:0012:00が弔問記帳受付時間でしたが、これが長蛇の列。そのため、実際には時間をオーバーして弔問を受け付けていました。

 

*ところで、カバーニャ要塞の追悼の大砲ですが、月曜日は9:0018:00、火曜日から土曜日までは朝6:0018:00の間で1時間おきに大砲が1発ずつ鳴らされました。金曜日にはいつもの21:00の大砲も復活。わたしはベダード地区(要塞からは運河を挟んで4kmくらい離れている)に住んでいるのですが、大砲の音が聞こえるんですよね。朝6時って…まだ薄暗いんですが…

 

1129日(火)

19:00には革命広場で追悼集会(と訳すのだろうか、スペイン語でActo de Masas en Homenaje a Fidel)が行われました。中南米諸国、南アフリカ共和国の大統領、ギリシャの首相、そのほかの国々の首脳の弔辞(スピーチ)、最後にラウル・カストロ議長のスピーチ、という4時間近くの集会でした。

 

1130日(水)

7:00に、カストロ前議長の遺骨を乗せた車が革命広場を出発。

ベダード地区、旧市街を通り、沿道には最後のお別れをする人々でいっぱいでした。

この車(キャラバン)は、カストロ前議長が埋葬される革命発祥の地サンティアゴ・デ・キューバのサンタ・イフィヘニア墓地(キューバ建国の父ホセ・マルティの墓がある)へと、革命当時のルートを逆になぞって向かいました。
 

121日(木)~122日(金)

キャラバンは東に向かって進み続け、まだまだ続くТV追悼番組。

 

123日(土)

キャラバンは昼過ぎにサンティアゴ・デ・キューバに到着。19:00にアントニオ・マセオ広場にて追悼集会。中南米諸国の大統領も出席しましたが、ここではキューバ人の弔辞のみでラウル・カストロ議長のスピーチで終了。1時間20分の短い集会でした。

 

124日(日)

この日はサンタ・イフィヘニア墓地にてカストロ議長の埋葬。7:00頃ハバナのカバーニャ要塞で21発の大砲の儀式。

これで喪に服す期間は終わったのか、TV番組も午後は通常の日曜日の番組になりました。ただ、お店は日曜日はほとんど14:00には閉まるので、服喪期間中と変わらないのでした。

                                       

*この週は学校、政府機関、政府の店は休みでしたが、個人の商店は開店していました。

ただし、レストランでのアルコール類のサービスやお店での販売はナシ。(1部提供していたレストランはあったけど。)

博物館も休館(週末には開館)でしたが、それでもずっと開いていたのは革命博物館。さすが年中無休です。

その他、スポーツの試合(キューバの野球リーグ)、コンサートなども中止で、1126日に予定されていたオペラ歌手のプラシド・ドミンゴのコンサート(アリシア・アロンソ劇場)も延期になりました。


カストロ前議長の追悼関連行事以外は活動のない、静かな1週間でした。

そういえば、ベネズエラのTVチャンネルが、アメリカでのキューバ人亡命者による祝福?の声をニュースで流したので、見ましたが、キューバ国内ではほとんどカストロ前議長を批判する人はいないように思います。確かに人権問題などありますが、教育や医療などの社会政策においては、国民に大いに貢献しているわけで、いわゆる“独裁者”というのも、冷戦時代にアメリカが作り上げたイメージだと感じます。
 

追悼集会が行われた革命広場

(翌朝の写真ですが、すでにきれいに片づけられていました)

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